「分人主義」というのは作家の平野啓一郎さんが提唱している概念。
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4062881721/ref=cm_sw_r_cp_tai_IjUNBbB4CTDKD
みんなそれぞれ個人という「本当の自分」がいるわけではなくて、会社であったり家庭であったり、AさんやOさんと一緒にいるときには、別々の「自分」(=分人)になって関わっている。ひとつの本当の自分が複数の仮面を被って生きている、というのではなくて、それぞれの分人が全部「本当の自分」であるという考え。
非常に腑に落ちる概念なのだが、これを心療内科の世界に応用して考えてみた。
見放され不安が強い人は、複数の分人それぞれに弱い軸が存在する。軸同士は遠く離れ、軸を囲む分人という円にはほかの円との重なりがない。
いままでそれを「本当の自分」が無い状態、「本当の自分」がわからなくなる、と表現していた。しかし、そもそも本当の自分という概念には実態がないことに気づいた。
分人が普通なんだという考え方。とても腑に落ちる一方で、自分が自分であるために必要な一本の軸は中心にあるべきだと思う。それぞれの分人を円だとすると、かならずその全ての円のどこかに軸が触れている状態。必然的に円どうしの重なりも生じる。重なる面積が多ければ多いほど、生きていくのは楽になる。
極端な例を挙げる。ホリエモンを見ていると、分人という概念すらないように見える。いや、分人は存在しているのだろうが、そのほとんどが重なり合い、中心に極太の軸がデンと鎮座している状態なのだろう。とっても楽に生きられるんだろうなと思う。お金もあるし。
一方で、境界性パーソナリティ障害の人。非常に強い見放され不安があり、軸が目の前の相手(他人)にごく近いところに存在し、そこを中心に円ができている。これを分人といえるのかは疑問だが、そうでもしないと自分が(不安で)耐えられないというコンディションが主たる病態。当然ながら脆弱な軸がばらばらに存在し、異常な疲労感につながる。
考え方や捉え方の問題なのかな。目の前にいるAさんに嫌われたくない。Aさんからどう見られるかというのが一番に気になってしまう。だから空気を読みすぎて合わせてしまう。そうではなくて、Aさん用の分人を楽しむっていう考えができれば、とても楽になるし、結果的にAさんからも印象が良くなる。
もうひとつの例として、「会社で上司のパワハラをうけてうつになっている人」を考えてみる。
会社にいて、上司が近くにいるときはひどく辛い精神的ストレスがかかるだろう。これは客観的にみると、上司といる時の分人だけが辛いだけであって、他の例えば家族といるときに分人や友人と過ごす分人は辛くないはずである。しかし、上司といる時の分人という円の面積が馬鹿でかくなって、その他多くの楽しくてリラックスできるはずの分人の円が、風船から空気が抜けるようにしぼんでしまう。大切なのは、上司といる時の分人だけが辛いのだと冷静に客観的に掌握すること。会社をやめて辛い分人を抹消するのもありだし、それはそれと割り切って、別の楽しい分人の風船を膨らますのもありだ。
そして引きこもりや不登校の人。
この人たちは、分人の数が極端に少ない。不安や恐怖、トラウマで複数の分人を作るのを拒んでいる状態。逃避と言う名の分厚い壁で自分自身を囲ってしまうとこうなる。壁に小さな穴を開け、小さな分人をちょっとずつ作って大きくしていくことで、外に出られるようになってくるのかなと思う。引きこもっている自分が全てではない。本当の自分というのは、もっともっと複数いる。そう気づいてもらえるかが大きな分岐点なのかな。
つくづく、こういうのって薬で治すものではないなと感じる。
薬はあくまで「良くなるキッカケ」であり、「補助的な立ち位置」なので、決して主役にはなり得ないのだ。
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